IE9ピン留め
感情 痛み 目標 歴史


すべて時間を軸に わたし達の中で展開される


すべては同時に起きている 時間はひろがってゆくもの


なんにも心配しなくていい


ぜーったい 大丈夫 みんなみんな 一緒だから





案じていたものが ほらもうここに

握りしめていたものが あれいつの間に




いつもいつも 静かに 深く すべてを楽しみにしていたらいい





わくわく












# by pianist-alicia | 2011-10-24 01:31 | footsteps・・
ベルリンに来て4ヶ月が過ぎたある日、歯医者さんに行って来た。

奥歯の詰め物がとれて、そこに小さな虫歯もできていたので
治療してもらうことに。


「麻酔する?」
感じの良い、歯科医のおじちゃんに聞かれた。
一瞬、しない、と言おうかと思ったけれど
久々の歯医者ですでに全身緊張状態だったので
お願いしますと答えた。


ヴィーーーーン
という音とともに、歯が削られていく。
ほんの少しなんだろうけれど、ものすごくたくさん削られている感覚。
同時に、今まであまり考えなかったことが頭に浮かんだ。


これ、麻酔してなかったらものすごく痛いんだろうなぁ、と。


口の右半分がなくなってしまったかのように感じる、麻酔の効果。
きっと本当は身をよじるような痛みも、何も感じなくなる。
違う意味で怖い、と感じた。
何も痛くないのに顎がガクガクと震える。


痛いのがいいことというわけではない。でも、きっと痛いって大切な感覚なんだ。
痛い→不愉快、のような短絡的な捉え方ではなくて・・
身体と精神の現状を教えてくれるシグナル。緊急に改善を求めます、というSOS。
どうしていいかわからない時も多いけれど、その声を無視すると
たいてい良い方向にはいかないものだ。


そんなことを言いつつ、麻酔なしで治療してもらう勇気はまだないけれど
痛くなった時に、冷静に身体の状態と向き合える精神を育てたいと思った。


そして、20分ほどですべて完了し、歯科医のおじちゃんに言われたこと。

「これは5年から10年はもつ詰め物だからね」


少なくとも5年は心配しなくていい、ということより

「歯は一生ものだからね、大事にするんだよ」

という祖母の言葉を想い出した。




# by pianist-alicia | 2011-09-22 18:28 | footsteps・・
ヨーロッパでは、ベジタリアンやヴィーガンという概念が
日本に比べると普及しているように感じる。
一年半くらい前に一大決心をしてヴィーガン宣言をしたわたし。
思えばあの頃から大きく人生が変わり始めた。


きっかけは、ある本で畜産業界の実態、それが人体に及ぼす影響などを知った。
お肉があるのが当たり前の生活だったわたしにとって
それはそれは衝撃的な内容だった。
読みながら身体の震えが止まらなかったのを憶えている。


この体験から、徐々に自然栽培、環境の中で循環できる石鹸や洗剤、
ヨガや自然出産に至るまで、とにかく新しい分野でたくさんのご縁を頂いて
現在の地球で人類はどう生きるべきかということが
わたしの主軸となりつつある。


肉や魚、乳製品に手を付けず、日本で暮らすのは至難の業。
まず、外食だとほぼ不可能であるため、料理をするようになった。
そして飲み会や人との付き合いで外食する時も居心地が悪くなり
人間関係が一気に変わった。

料理をするようになったのは良かったけれど、一つ苦しかったのは
あまりに周り人達の関心が薄いことだった。
わたしが変な宗教にでも影響されたのではないか
(この書き方自体が差別的だが、正にこの通りの感覚だったのでご容赦ください)
という感じで、どちらかというと「可哀想に」という眼差しでみられた。
わたしはわたしで、あなた達は知らないから食べれるだけで
本当は裏で恐ろしいことが起こっているのに!
と、感情的になってしまい、周りを拒絶していた。


この時期、体重が3、4キロ減った。
食事のスタイルが変わったから、ということもあるけれど
同時にストレスも多かったからかもしれない。

これは身体に悪い
この豚はどんなにひどい目にあってこの食卓まで運ばれて来たのだろう
何でみんなは知ろうともしないんだろう・・

でもきっと、ベジタリアンというテーマに真剣に向き合った
ことがある人はみんなが通る道ではないかと思う。
ベジタリアンに限らず、どんな分野でも世の中の大きな流れに
立ち向かおうとすると、必ず逆風に出会うものだ。


今わたしは、自ら肉や魚、乳製品を買うことはない。
でも誰かに頂いたり、出された料理は何でも美味しく頂くことにしている。
否定からは何も生まれないことを学んだから。
肉や魚が悪いわけではない。
世界は波動でできているから、感謝で満たされたものなら
なんだって大丈夫なんだ。
愛情を受けられないまま自分の前に出されたものは
自分自身の感謝をもって頂くことが、その命へ敬意を示す方法ではないか。
それは野菜だろうが果物だろうが同じこと。


最大の敬意をもって命:食を扱うならば
地球環境の循環を考えても、肉や魚を暴食することはできないはず。
それはそれは高価で、お祝い行事など特別な時しか肉を食べなかった時代は
生命全体が共存できる生き方に自然となっていたのではないか。
変化の第一歩として、無知だ極端だとお互いを否定することではなく
まず目の前にある命を、感謝の心をもって頂くこと。
急がば回れ、今日一日を生き抜くことができた喜びを大切にしながら
暮らしていけたらと想う。



# by pianist-alicia | 2011-08-26 20:24 | footsteps・・
子どもって何だろう
わたしも一度は子どもだった
でもわたしはずっと連続している

What is a child?
I was once a child myself
and still it is the same me continuing today...

# by pianist-alicia | 2011-07-28 17:31 | footsteps・・
子どもへのまなざし、という本を読んで
とても興味深いことがたくさん書いてあった。


著者の児童精神科医、佐々木正美さんは
過保護で子どもをだめにすることは決してない、と繰り返し強調していた。
過保護と過干渉は別物だと。
子育てや人生に手遅れということはないが
覆せない順序があると彼は言う。


「成長段階のどこかで、無条件に愛され
欲求がすべて満たされる時期を経験することによって
子どもは人を信頼することを覚える。自分自身を信じることを覚える。
首が座る前に寝返りをうつことはできないように
その時期を経ずに社会性が身につくことはあり得ない。」


そして、その欲求がすべて満たされる時期が早ければ早いほど
子も親も楽なのだそうだ。


お腹が空いたと泣いたら、すぐおっぱいを飲ましてもらえる。
むずがゆくて泣いたら、すぐおむつを取り替えてもらえる。
遊んで欲しい時にかまってもらえる。
転んだ時、危ないことがある時は必ず誰かが側にいて助けてくれる。


小さい頃の要求はとてもシンプルだし
至極簡単なことでも自分でできない子どもは
泣いて注意を引くことが精一杯の努力。
努力が報われる=大人が手を貸すこと、を繰り返し経験することによって
子どもは一人で歩く自信をつけていく。


困難が現れるとすぐあきらめてしまったり
自分自身がどうしたいのかわからず周りの顔色ばかり気にしてしまったり
そういう傾向がある人は、幼児期に満たされていなかったという可能性があるそうだ。
確かに、大の大人が無条件に愛されたり
欲求をすべて満たしてもらえる経験をすることは難しい。


子育てや人と接することは人生において一番の課題、きっと。
どうするのが正しいことなのか、わからないことも多々あると思う。
でも、私利私欲じゃなくて、本心から相手のためを想ってやったことなら
最終的には「正しさ」を超えて伝わるんじゃないだろうか。
そして人にそう接するためには、自分がそうされる経験をたくさん積むしかない、
ということは、、
できる限り、たくさんの子どもに、たくさんの大人に、
本心からの想いやりをもって関わっていこう



言うは易く、かもしれないけれど・・・




ベルリンなら、わたしにもできるかもしれない。





# by pianist-alicia | 2011-07-18 04:17 | footsteps・・